6.0後のふたり
結んだことがね。ないのですよ。
虚言を吐くウリエンジェの首元を引き締めたのが、数時間前。その飾り布は奇妙な形で結ばれ、帰宅した。くたびれた痩躯は折れ曲がり、革張りの椅子に根を張っている。
「おかえり」
「ただいま戻りました」
サンクレッドの声音に反応し、重い瞼から瞳が覗く。窓外の月と同じ色。
「お偉方との会合はどうだった?」
椅子の正面へ設えた卓上に、身体を預けて問えば、ウリエンジェは首を横に振った。
「あのような場は、どうにも」
「お前が言う、人との繋がりがある場所。だろ?」
労いを込めて額へ触れると、ひんやりした感触が伝わる。外は随分、冷えるらしい。
恨みがましく見つめる金目に「そんな顔をしても、私は同伴出来ないよ」と笑う。ここに居ると、昔の口調に戻るのがいけない。
「議員の方々をはじめ、大学教員も昔の私を知るのです」
「やりにくいよな」
ウリエンジェの所用はオールド・シャーレアンでの懇親会で、レポリット達がたいそう行きたがり、参加せざるを得なかった。レポリットの関心に、議員や教員のおべっかに、振り回される姿が目に浮かぶ。サンクレッドから言わせれば、受け応えが正直過ぎるのだ。少しは人を往なすことを覚えればいい。
「隣に貴方が居ればと、何度も」
ほら。ウリエンジェは正直だ。こそばゆさを感じつつ、今度はサンクレッドが首を振る。
「俺の話術は、ただの職業病だ」
「私には成し得ないこと。であれば、道化に徹するばかりです」
「それで、ネクタイを結び直したのか?」
サンクレッドは長い首元を見る。いわゆる蝶結びなのだが、何故か片方だけが異様に長く、アンバランスに結われていた。
「一種の抗心でしょうか」
「……ふん」
幼少期のウリエンジェを「お育ちのいいガキ」と思っていた。今なら理解出来る。蓄えた知識や、難解な喋り方は、虚勢から来るものだと。サンクレッドが、そうだったように。
やや光沢がある黒いネクタイ。蝶の羽部分へ指を差し込み圧をかけると、結び目はあっけなく解けた。些細な抗心を嘲笑うみたいに。
「サンクレッド」
空気を震わせる低音に甘えられ、卓上に預けていた身体をウリエンジェへと移す。解けたネクタイを引き寄せ重ねた唇は、カサついていた。舌先で薄いソレを割り開き、吐息で湿らせていく。絡ませた肢体が傾いた拍子に、ウリエンジェのコートから球体が落ち、ごろんと音を立てる。
「林檎?」
「ああ。手土産に頂戴しまして」
編みかごで渡された果実を、ウリエンジェはレポリット達へ均等に分け与えたが、生憎と残ってしまい、ポケットへ収めたと言う。
天窓から照らされた林檎は、薄暗い室内でも赤を主張していた。
「シャーレアン人は皆、林檎を食べる」
「私は好みませんが」
「ふふ」
けれど、幼少期の彼が林檎を食していたのを、サンクレッドは知っている。恐らく、食べ飽きたのだろう。あの表情は好物を口に運ぶと言うより、無心だった。
「この林檎には、知恵が詰まっているんだな」
前屈みになったサンクレッドが、床から果実を拾い上げる。服の裾で乱雑に擦り、表面に齧りつけば、しゃくりと音を鳴らした。内側から滲む蜜。
「その蜜と同じに、知恵が溢れると信じられている」
「……ウリエンジェ」
端正な顔立ちが鮮やかな哀しみを纏う。彼の知恵は人を救いもしたが、相対的に憎しみも生んだ。そして別れも。
「学びは糧となります。ですが、探究は時に身を滅ぼす」
思い出と言うには遠くない時間の中、彼は自身の行動を「愚行」と認め、贖罪を求めた。それを最も近くで見ていたのは、サンクレッドだ。
「求めるのは罪か?」
「私には毒だった」
どうしたって、ウリエンジェは罪から逃れられない。サンクレッドの存在が彼の罪を想起させる。何より、お互いが必要だった。
「もういいんだ」
気休めを喉奥から吐き出して、ウリエンジェの唇を塞ぐ。これ以上の償いは必要がない。
枯れ木を思わせる両腕が、サンクレッドの背を掻き抱き、安息する。俯いて跪くより、哀しいと縋って欲しかった。
「お前は、俺と」
膜の張った金目を宥めて微笑む。手の内にある果実より、ずっと甘美な瞳。
「堕ちてくれただろう?」
サンクレッドは林檎を放り投げると、可愛そうな罪人を迎え入れた。