シリアス・ムーンライト

月明かりに照らされて

 うたた寝をしていたと、ウリエンジェは薄らぼんやりと戻る意識の中で思った。
 またたきを数度。卓上の明かりが頼りなげに、封の解かれた書面を照らしている。
 返答を考えていたのだったと思い出し、しかし今夜中に仕上げるのは難しいと諦める。
 カップに半分ほど残る紅茶を飲み干して、執務室から退出した。廊下は暗く静まり返っており、深夜であることが窺える。
 
 自室へ向かう途中、ある場所でウリエンジェは足を止めた。
 それは屋上に続くのぼり階段だった。砂の家は外部の侵入を防ぐため、出入り口は一階にのみ存在する。これは屋内からだけ行くことの出来る、いわゆる秘密通路になる。
 執務長のウリエンジェは砂の家から二、三日出ないこともザラだが、何故か今日は外気に触れたくなり階段へと足を運んだ。
 天井の重い扉を開けると、冷んやりとした風が頬をなでる。屋上に出たウリエンジェは身体を震わせ、起き抜けには肌寒いくらいだと空を見上げた。
 今夜は満月。諜報活動には不利な夜だ。
 しばらく顔を見せないサンクレッドを思い出して、杞憂に過ぎないと屋上の手摺りへ向かう。
 ヒューランが基準となっている手摺りは、エレゼンのウリエンジェには些か低い。下を覗き込むと、その高さに足がすくんだ。
 ウリエンジェは高所が苦手だ。
 眺めるのはまだ良いほうで、今のように高さを意識すると足元に浮遊感が生まれる。
 
 ウリエンジェの身長がサンクレッドより頭ひとつ分、低かった頃。
 サンクレッドは気まぐれに建物との間を飛び歩いていた。
「そのような行いは危険ではありませんか」
 ウリエンジェが問うと、サンクレッドは笑った。
「そんなヘマはしないさ。私はこの身軽さを買われたからね」
 宣言通り、彼の身のこなしは安定していた。そして面白いほどに飛び移るのだ。人ひとり立てるかと言う窓枠や、不安定な木の枝へと。
 ウリエンジェは生来の探究心で、どの程度の場所まで移動が可能かサンクレッドへ尋ね、せがんだ。彼も楽しんでいたのか断られた記憶はない。
 とりわけ多かったのはサンクレッドへ声を掛け、ウリエンジェの場所まで移動する遊びだ。合図として二回、手のひらを叩く。
 
「ウリエンジェ?」
 物思いに耽っていると、下から声が聞こえた。声のする方向を見れば、砂の家の入り口にサンクレッドの姿がある。
「相変わらず、宵っ張りだな」
 サンクレッドの声は通りが良いので、屋上に居るウリエンジェの耳にも届いた。対して自分の声はくぐもっているため、声を出すかわりに頷いて見せる。
 と、思いついて両手を目の前に広げた。
 彼はまだ、覚えているだろうか。
 手のひらを二回叩けばサンクレッドは気付いたようで、膝を屈伸させると次の瞬間には屋上へ姿を現した。襟足で束ねられた髪が煌めき、音もなく手摺りへと着地する。
「懐かしいことをするじゃないか」
「ええ、少し昔を思い出しまして。可笑しいですか?」
「いいや?」
 手摺りに腰掛けるサンクレッドは笑った、ように見えた。白銀の髪が月明かりに照らされ、反射で表情を朧ろげにする。
「月に溶け込みそうですね」
 顔色が読めないことはウリエンジェに彼の持つ危うさを思い出させ、言葉を紡がせる。
 別段驚く訳でも無く、サンクレッドは夜に浮かぶ月へ目を向け「ユウギリが」と呟いた。
「ドマには月に還った姫の話があると言ってたな」
「月に、ですか」
 サンクレッドは頷いて、目線をウリエンジェに戻す。幾らか目が慣れたのか、先程より表情が確認出来る。
「地上で暮らした娘が実は月の姫で、満月の夜に還ったんだそうだ」
「止められなかったのですか?」
「ああ」
 話はこれで終わりらしく二人の間に沈黙が流れる。やがて、再びサンクレッドが口を開いた。
「俺が月に拐われたら、どうする?」
 彼は往々にして軽口を叩くが、人を試す発言をするのは稀だった。ウリエンジェは目の前のサンクレッドから発せられる薄暗さを、確信に変える。
「……では私は、月の眷属となりましょう」
 そうして、サンクレッドの唇を塞ぐ。
 ウリエンジェは弁えていた。言葉が雄弁に語ることも、届かなければ響かないことも。
 今夜は後者だ。付き合いの長さは人の群れで生きるのが苦手な自分にも、傾向と対策を身に付けさせる。
 抱き寄せた身体は見た目よりも、うんと冷えていてウリエンジェの庇護欲を掻き立てた。
「夜風はお身体に障ります。どうぞ、今宵は休まれて」
 身体を離そうとすれば追い縋るサンクレッドが、肩口に額を擦り付け強請る。
「……寒い。お前の部屋へ連れて行け」
「かしこまりました」
 首筋に絡む腕をそのままに、ウリエンジェは造作もなくサンクレッドを持ち上げた。