ネームレス

幼少期の話は、ここから始まった

 カツカツと踵の高い靴音が聞こえてくる。
 明らかに履き慣れていないと言った歩き方にサンクレッドが振り返ると、そこにはウリエンジェが居た。
「どうしたんだい。そんな靴を履いて」
 ウリエンジェの履いている編み上げブーツはえんじ色をしており、品よく足元を彩っている。
「貴方と」
 変声期の掠れた声がサンクレッドの鼓膜を揺らす。
「サンクレッドと同じ目線に、立ちたく思いました」
 金目が一度瞬きをして長い睫毛が目元に影を作る。赤く色づく唇も、鈍色のふわりとした髪の毛も、見た目は少女のそれだった。声を発しなければ、男だと気付かれないだろう。自分も勘違いをしていた一人なのだが。
「相変わらず突飛な言動をするね」
 踵の高い靴でもウリエンジェの目線はやや低く、上目遣いは変わらなかった。時々そうするように、サンクレッドは頭を撫でてやる。彼の髪質は猫っ毛で触り心地がとても良い。
「エレゼンの成長期は遅いのだろう?慌てなくとも、私の背などその内に抜かすさ」
「現在の貴方と同じものを見たいのです」
 サンクレッドは後頭部から手を離すと、まるで理解が出来ないと笑った。
 その表情をウリエンジェは苦く思う。人好きのする「作り笑顔」など以前の彼からは想像も出来なかった。
 諜報活動を学ぶサンクレッドは元々の素質もあったのだろう。すぐさま頭角を現し、此処シャーレアンで一目置かれる存在となっている。
 対してウリエンジェは地道に書物と向き合う日々だ。彼の大きな背中も瞬く間に遠くなり、そうして忘れてしまう。手足ばかりが長く「模範生」の自分の事を。
 だから現在、サンクレッドと同じ目線に立つ必要があった。
「それで感想は?」
 小首を傾げると白銀色の前髪が瞳にかかり、髪と同様に白い肌へ馴染む。曖昧なサンクレッドの輪郭は訓練の賜物だろうか。それとも。
「顔が近いです」
 我ながら凡庸で稚拙な発言だった。
 白銀色のカーテンから覗く淡褐色の双眸が愉快そうに細められる。少年と青年のあわいに佇む彼の顔立ちは美しかった。弾力のある唇は口角が僅かに上がっている。
 この高さなら触れられる。
 花弁のように薄い唇をウリエンジェが近づければ、白魚の指先がそっと押し留めた。
「それは君が大切な人とするものだよ」
 年少者へ言い聞かせる物言いでサンクレッドは嘯く。性器への触れ合いはあるのに、可笑しな話だ。
 後方へ足を差し出し、大人しく引き下がる。不安定な足元のせいでよろめくと、見かねたサンクレッドが腕を掴んだ。
「慣れない靴を履くからだろう」
「……申し訳ありません」
 頭を垂れたウリエンジェの手を取り「しょうがない奴」と、サンクレッドは口元を緩める。
 それはウリエンジェのよく知る「彼」の表情だった。